私の編集ノート「地方・小出版流通センター」

文・大原哲夫編集室 大原哲夫

初出:『杉 2024年5月号』2024年4月15日、杉発行所刊、大原哲夫(現・大原哲夫編集室)、私の編集ノート 連載第4回 「地方・小出版流通センター」より

出版流通の自由

 モーツァルトの音楽に救われたのではあるが、家に籠って内省的な生活をしていたわけではない。会社では闘っていた。知性の欠片もない会社側の不当労働行為に抗議し、組合の執行委員に立候補したが、あえなく落選。仕事を干され四面楚歌状態だったが、私は意外と元気。おかげで本を読み、出版とは何か、と思索する時間をもてた。「沈黙をしてゐるな 行為こそ希望の代名詞だ」と、小熊秀雄の詩にあるではないか。

 それから一年ほどした頃、私は会社とは別の新たな「仕事」を始めた。もちろん無給で。当時はそんな言葉はまだなかったが、いまの言葉で言えばボランティアである。

 一九七六年(昭和五一)五月の土曜日。
「こんにちは。新聞で見たのですが、よかったら僕も手伝わせてくれませんか」私はそう切り出した。
「はい、どなたですか」
 突然の来訪者に、作業の手を休め顔を上げた青年が「地方・小出版流通センター」代表の川上賢一さんだった。

 出版の自由は、流通の自由によって初めて保障される。この理念を実践するために、一九七六年四月、川上賢一、今善司、有北隆和の二〇代の三人の青年が「地方・小出小流通センター」を設立した。小学館や講談社などの大手出版社を大株主とする、大手取次による出版流通独占の一角を穿つ、まったく新しい、小さな出版流通システムだった。毎日新聞、朝日新聞に「流通センターの誕生」の記事が出たのは、翌五月だった。

 私は、理想を掲げた同じ思いの同世代の青年たちがいたことを知る。若さの特権は性急なことというが、もはや、じっとしてはおられず、地方・小出版流通センターを訪ねたのだった。
 センターは、靖国通りから駿河台へ抜ける通りの中ほどにある中華料理店、漢陽楼の二階にあった。階段を上ると、地方の本が入った段ボールが所狭しと置かれ、開封、棚差し作業をしている若者たちがいた。

 川上さんは、大手出版社の、それも小学館の社員が手伝いに来たというので、たいそう驚いていた。
 だが話をしてみると、彼はミニコミ、自主出版物を扱う新宿の「模索舎」で働いたのち、このセンターを立ちげたというのだ。「模索舎」を立ち上げた五味正彦さんは、早稲田のベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のキャップでよく知っていた。そんなことで、川上さんとはすぐに意気投合、旧知の間柄のようになった。
 もうひとつ驚くことに、センターで偶然、早稲田の全共闘の仲間だった幾志良吉さんに再会する。彼も川上さんの友人だった。幾志さんは現在もセンターで川上さんの右腕になって支えている。

 かくして私は、自分の所属する大手出版社とは敵同士、と言っては言い過ぎか、その対極にある地方出版社、小出版社の本を扱う仕事を手伝うことになったのである。
 天の采配か、都合のよいことに、この前年、一九七五年に勤務先に「土休」が導入された。つまり、土曜日が“半ドン”ではなく“全休”になったのだ。まだ日本がそんな時代だった。私は空いた時間、そして休みになった週末ごとにセンターに出かけ、暑い夏にはランニングひとつで、棚差し、荷造り、出荷作業、段ボールの片づけなどの仕事を、猫の手以下、足手まといと言われながらも、めげずに手伝った。
「なんで大手の、小学館の“高給取り”が手伝うの?」と、その頃は業界紙「新文化」にいた口の悪い加賀美幹雄さんがよく言っていた。まあ、それは言われてみればそのとおりだが、心ならずも大手に入ってしまった私にとって、センターの手伝いは何か贖罪のような気がしていた。何か青春の証を探しているようなところがあった。

情報誌、月刊「アクセス」の編集

 流通から疎外された地方出版社、小出版社の本は、いくら良い本を作っても全国の読者の手に届かない。読者もまた、欲しい本を手に入れることができない。
 センターの業務は地方出版社、小出版社の本を協同組合のようなかたちで、一度、神田に集め、そこを拠点として、既存の大手取次の力も利用、東販、日販などにマージンを払って本を流していく。秋田で出版された本が、鹿児島でも買えるようにするシステムだった。

 一方、地方で、小出版でどんな本が出版されているか、情報を発する必要があった。タブロイド版、二~四ページの“地方・小出版と読者を結ぶ情報誌”月刊「アクセス」が七六年八月から発行された。アクセス権ということが言われ始めた頃だった。この“アクセス”という言葉には、一般にはなかなか知られることのない地方の本、小出版の本の情報に“接近”するという新鮮な響きがあった。

 センターの手伝いを始めて一年ほどしたころ、七七年七月、「アクセス」一二号に私は原稿を執筆した。タイトルは「自立する『地方』雑誌ー地方文化への期待」。
「地方」雑誌の多くが地域の歴史をとりあげ、歴史の闇に消えた可能性に、そして「中央」ではなく「地方」にいま一つの近代を模索していた。この小論で取り上げた雑誌は、次のようなものだった。

 福岡、葦書房刊の季刊『暗河』(1973 創刊)、責任編集は熊本の石牟礼道子、松浦豊政、渡辺京二の三氏。長野の銀河書房の季刊『地域と創造』(1976 創刊)、編集顧問は井出孫六、上条宏之、神津善三郎、熊井啓、本多勝一ら信州出身者。沖縄の郷土月刊誌「青い海』(1971 創刊)などである。

 私は、「それらの多くは意識の有無にかかわらず、『地方』をとらえ直すことによって、『中央』をあるいは近代そのものを相対化させている」と書いた。
 “日本の近代”を問うというのは、学生のときからの私のテーマで、センターの活動を支援した、私の内的動機のひとつだった。

 この記事は、紀田順一郎さんの目にとまり、紀田さんの著書『読書戦争』(三一善房 1978)に引用され、紹介された。それからしばらくしたころ、センターの顧問的存在だった出版評論家の小林一博さんから、
 「小学館の空いた時間に月刊『アクセス』の編集をやってくれませんか」と頼まれた。
 こうして一九七八年三月の「アクセス」一九号から編集を引き受けた。私は判型を雑誌スタイルのB5判に変え、責任編集を「アクセス編集委員会」とした。といっても、編集委員会は私一人だけ。会社では四面越歌の「問題社員」だった私は、社外では一足先に編集長になってしまった。

 前年、一九七七年末には会社では美術編集部に異動(詳しくは次号に執筆)、仕事は忙しくなり、空き時間はほとんどない。しかし一方で、私は「アクセス」の編集に勤しんだ。わずかな時間も惜しんで神保町の喫茶店ラドリオの片隅にコーヒー一杯で陣取り、赤ペンを握っていた。

 「アクセス」二四号には大学の恩師、鹿野政直先生に「地域文化の表情」と題する原稿を書いていただいた。「センターは、ぼくにとって、地域文化の窓である。神田が代表するお墨付きの文化に、理念上、それはちょうど向かいあう位置にある。入ると、日本を北から南へ地城別の書物、未開放部落問題の書棚、女性問題の書棚が、ミニコミ雑誌の書棚とならんでいる。ああ、ここには、おしこめられた文化が、その枠をやぶってでようと息づいているな、と思う」(一九七八年八月一日号)

 八一年一月、センターの販売部門は小川町、本郷を経し、待望の神保町のすずらん通り、東京堂の並びに店舗を移すことになった。書店というところをちょっと気取って“書肆”と頭につけ、店名を「書肆アクセス」とした。一〇坪ほどの狭い空間に、北は北海道から南は沖縄まで約六七〇〇点もの本や雑誌が展示された。

 私の月刊「アクセス」編集室は、喫茶店ラドリオの片隅からこの「書肆アクセス」のいちばん奥、A4の本がようやく開けるほどの小さなテーブルの上に移った。時折、店にお客さんが入ってきて、「へえ、地方でこんな本が出ているんだ」とかなんとか言いながら、棚の前に立ち止まる。その雰囲気がたまらなく好きだった。

 「アクセス」の原稿依頼で、大勢の方にお会いした。紀田順一郎さん、中桐雅夫さん、佐多稲子さん、「ヤマザキ、天皇を撃て!」(三一書房 1972)を書いた奥崎謙三さんたち…。原稿料はわずかだったが、みなさん喜んで書いてくださった。奥崎さんの記事は、彼のバッテリー販売店、神戸のサン電気を訪ねて、私が取材記を執筆した(1978)。彼には戦後すぐ悪徳不動産業者を殺害した前科一犯の過去があった。彼は人の不幸を放って置けない優しい一面がある。帰りは奥崎さんの車で新神戸の駅まで送ってもらったが、私たちは、ずっと私服警官の白い車に尾行されていた。

 奥崎さんといえばこんなことがあった。神戸で会ってから一年ほどした時だったか、一九八〇年の同日選挙で、彼が参議院議員に立候補したときの話。銀座通りのビアホール、ライオンの前で、右翼の街賞車かと見紛う、巨大なラウドスピーカーの付いた選挙カーの上に立ち、マイクを握って、
「参議院議員に立候補した前科一犯の奥崎謙三で~す!」と大音響で演説していた。
 ちょうどその時、私が通りがかり、これはまずいと思ったが、もうあとの祭り、彼と目があってしまった。

 その巨大なスピーカーで、その上さらに大音響で、「そこにいるのは~、大原さんじゃあ~、ありませんかあ~!」と、銀座通りのど真ん中で、呼び止められてしまった。
 演説を中断し街宣車から降りてきた奥崎さんは、カメラを取り出し、街宣車の前で自分の写真を撮ってくれと言う。仕方がないので、撮ってさしあげた。周囲には、何か起きるかもしれないと、私服の警官が監視していた。警官が期待した事件は何も起きなかったが、後日、センター扱いの、彼が書いたサン書店の新刊を開けてみると、私が撮った写真が扉ページに載っていた。

 結構うまく撮れていた。
 のち、奥崎さんのことは『ゆきゆきて、神軍』(一九八四年、原一男監督)という映画になったので、ご覧になった方もおられるかもしれない。
 また、こんなこともあった。市ヶ谷の私学会館で開催されたセンター主催の「東北出版人懇談会」だったか、私は受付を担当していた。誰も私が小学館の社員であるとは気が付かない。安心していると、向こうから見覚えのある紳士がやってきて、「社長の名代の小学館の三品(みしな)鼎です」と言って、五〇〇〇円の会費のところ、五万円の入った封筒を差し出した。私と目があうと、「あれ、君は小学館の人ではないですか?」「え、ええ、そうです」

 慌てていたので、その後、なんと言ったかは忘れてしまったが、よく考えれば、別にセンターから給料をもらっているわけではなかったので、何も慌てることはなかつた。三品専務も変わった社員がいるもんだと思ったに違いない。もちろん、お咎めなどあるわけない。

 話を月刊「アクセス」に戻そう。毎月の原稿集めはなかなか大変で、原稿がない時は私自身が書くほかなかった。しかし、いつも同じ筆者名では能がない。そこで一計を案じ、実名、ペンネーム、編集委員会と違う名で執筆。その中から、私の書いた様々な筆者名の原稿より。

・「奥崎謙三氏に会う、獄中で一四〇〇枚執筆」(第二二号 1978)
・「地方・小出版の“文庫”」(第二三号 1978)
・「地方・小出版の全集企画」(第三四号 1979)
・「点と線から面への広がりー東北出版人懇談会」(第四一号1980)
・「道具としての文化史」(第四八号 1980)
・「もう一つの流通と『書肆アクセス』」(第五一号1980)
・「地方出版のロングセラー」(第五二号1980)
・「“総合雑誌”と“身の回り雑誌”」(第五四号1981)
・「地方から生まれる子供の本」(第七四号1982)
・「特集・アクセス一〇〇号の回顧と展望」(第一〇〇号1984)

 一九七六年四月、センターが開設のときには「地方」「小」という言葉が大変新鮮だった。「地方の時代」は権力の側ではなく在野の側の言葉で、自民党政府が地方の時代を政策の道具として取り込む前である。
 やがて地方主義、地方の時代が声高に喧伝され、地方自治体は地方財政の余剰を競って豪華な地方美術館や音楽ホールの建設に振り向けた。美術館はできても、中に入れる美術品がないという陳腐な現象が各地で起こった。

 また六八年から七〇年の学生反乱を経て、多くの若者が地域で新しい文化活動を模索し始めていた。この頃、各地で地方出版社が創設された。七〇年代も末になると、高度成長にもようやく陰りが見え始め、Uターン現象、地方回帰などと言われた。私が月刊「アクセス」を編集していたのは、そんな時代である。

 「アクセス」の編集を通じて、各地の地方出版社の編集者、出版人の知己を得た。秋田の無明舎のあんばい・こうさん、福岡の葦書房の久本三太さん、銀河書房の蒲場正志さんなど、沖縄に行った時には、青い海社の皆さん、下関の赤間関書房の藤野幸平さんたち…。出版学会でお目にかかった出版人とはひと味違う、現場の出版人に知り合うことができたのである。

 日本各地に根を張って活動する一三人の出版人に彼らの主張を寄稿してもらった本がある。『「地方」出版論』(川上賢一編、無明舎、1981)。「私のような若い世代が今後歩む出版の世界での一里塚としての本書の刊行は意味多いものと信じている」という、本書の編者であり、地方・小出版流通センター代表、川上さんの巻頭言が揚げられている。出版に対するそれぞれの思いが熱い。

学会誌『出版研究』に執筆

 一九八一年(昭和五六)のことだ。センターの手伝いしてからすでに五年が経っていた。この年の出版学会機関誌『出版研究』の責任編者でもあった金平聖之助んから、「今年の学会誌に、何か論文を書かないかい」と声をかけられた。私は、「地方・小出版とその流通-地方・小出版流通センター五年の活動を中心に」という、四〇〇字原稿用紙八〇枚の論文を書いた。依頼された原稿は三〇枚以内、それが倍以上の長さになってしまい、迷惑をかけたのじゃないかと思っていたら、なんと巻頭論文だった。その論文の冒頭、「はじめに」より。

「年間十億冊という出版界の巨大な物流の中で、地方・小出版流通センターを媒介とした本の流れは、一匹の蟻が一粒の木の実を運ぶにも等しい。だが、この出版界の“蟻”の仕事が、一人の読者と一冊の本を結びつけるという出版本来の姿を鮮明に浮かび上がらせ、出版社のあり方そのものの再検討を迫り、さらには、『出版とは何か』という大命題をも想起させるに至った」と、センターの意義を書いた。

 本論では、地方・小出版流通センターの五年の動きを縦軸に、それぞれの地方出版社、小出版社の動きを横軸とし、本の流通がどのような軌跡を辿っていったかを、数値的な統計を加え論じた。

 第4章の「むすび」では、「この五年の間に地方・小出版の間にも“大”と“小”との格差が生じてきている。これからは企業として拡大することで出版業の安定を図ることと、本を出すことの根源的思いや、出版に対するロマンを保持するという二律背反をいかに止揚していくかが、地方・小出版社にも問われていくであろう」と、今後の問題点について指摘し、次のように締め括った。

「今後、当初の理念通り地方・小出版流通センターが正しく機能していくためには、これから各地の地方出版社・小出版社がいかにしてロングセラーたる良質の書を世に送り出していくかにかかっているのではないだろうか」(『出版研究』第一二号、講談社、1981)

 その後、この小論は抜き刷りされ、冊子として地方・小出版流通センターから一九八二年に発行され、全国のセンター契約出版社に配布された。また、「アクセス」とは別に、一九八三年五月から「図書新聞」紙上に連載コラム「地方出版の窓から」を田村紀夫、中井浩子さんと交代で執筆していた。その頃書いた記事は

「沖縄学の学を目指す『沖縄文庫』の刊行」(1983.5.14)
「県民に支えられて『沖縄大百科事典』」(1983.8.20)
「地方の思想を核に渡辺京二著『言葉の射程』」(1983.9.24)
「熱い眼差しで記録 『稗と麻の哀史』」(1983.10.22)
・・・・・・など。

 地方出版の応援団としてエールを送っていた。このコラムは、一九八五年五月まで約二年続いた。センターの手伝いをしてから、すでに一〇年の時が経っていた。

センターで出会った仲間たち

 一九七六年に開設されたばかりの地方・小出版流通センターは三年も持つまいと思われていた。とにかく危なつかしい船出であった。私だけではない、センターには多くの人が関わり、支援した。

 朝日新聞の榊原昭二さん、出版ニュース社の清田義昭さん、平凡社教育センターの嶋田晋吾さん、サイマル出版の河添敬幸さん、紀伊國屋書店の市橋栄一さん、前出の加賀美幹雄さん、都立中央図書館の瀬島健二郎さん、のち舞台プロデューサーになった長峰英子さんたち、いろんな人が駆けつけた。

 みんなまだ若かった。四〇代後半の榊原さんを除けば、三〇代が二人、私を含めあとはみな二〇代だった。出版の流通、出版の志について、いつも深夜まで議論は白熱した。青臭いなんて誰も言わなかった。

 彼らとの付き合い、友情は、その頃から現在までずっと続き、半世紀に及ぶ。正確にはセンター設立から四八年、今も地方・小出版流通センターは活動を続けている。
 月刊「アクセス」最新号は、五五九号を数える(二〇二三年八月現在)。ただ残念なことに、書店不況の中で二〇〇七年(平成一九)、神保町すずらん通りの「書肆アクセス」は店を閉じることになった。

 その時、出版された書籍に私も執筆した。
「『書肆アクセス』は、私の青春の日のオアシスだった。会社を抜け出し、用もないのによく『書肆アクセス』に行った。三省堂や東京堂に行くときは、かならず、すずらん通りの『書肆アクセス』の前を通った。立ち寄らないときも肩越しに店の中を覗いた。そこは私の仕事の原点だった。ここに来れば仲間がいた。地方で、都内の小出版でがんばっている仲間がいた。彼らの創った本があった」(『書肆アクセスという本屋があった』右友書院、2007)

 世の中は高度成長に浮かれ、売り上げ至上主義の中で猛烈サラリーマン、企業戦士などと持ち上げられていた時代、出版の世界もまた、あるべき姿を見失っていく時代だった。そんな中で地方・小出版流通センターの活動は、出版は、出版社はかくあるべきという出版本来の姿を浮かび上がらせたのだった。

(おおはら てつお/大原哲夫編集室)

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