《特別寄稿》2008/01/22

出版不況と“出版社不信”のはざまで

文・三原 浩良(弦書房前代表)

 出版界、驚愕の年明けとなった。新年早々、新風舎と草思社の相次ぐ倒産(再生法申請)が屠蘇気分を吹き飛ばした。
 両社それぞれ業態も歴史もまるで違うから、ひとしなみに論ずるわけにはいかないのだが、いわゆる“出版不況”がボディブロウのようにジワリときいてきた点は押さえておく必要があろう。

 新風舎は自費出版の大手版元、それまでトップだった文芸社を一気に抜き去り、講談社の刊行点数を超える急成長ぶりはかねてからいろんな意味で注目してきた。もともと自費出版は刊行に伴う経済的リスクのほとんどを著者が負担しているのだから、負債がふくらみ倒産に至るというのは私の常識では理解できない。一体何があったのだろうか。

 とまあ評論家風な言い草になってしまったが、実はここ十五年来、こうした大手自費出版社の動向を注目しながら苦々しい思いで眺めてきた。
 私はこの十五年間(葦書房十年、弦書房五年)、いわゆる地方出版に携わってきたが、その総売上げの三割前後は自費出版物の受注が占めていた。しかし、近代文芸社、文芸社、やがて碧天社、新風舎と自費出版大手の新聞広告を使った派手な全国展開が始まり、さらに大手版元も子会社を使ってこの分野に進出してきた。

 結果、私どもへの受注は次第に減りはじめる。おそらく各地方出版社や零細出版社でも似たような現象が起きていたに違いない。
 彼らの商法は(細部に相違はあっても)、たとえてみれば、家族連れの潮干狩りで賑わう砂浜にいきなり大熊手付きブルドーザーで突っ込んできて、ごっそりアサリを獲っていくような案配であった。少なくとも私にはそう感じられた。

 断っておくが、私は彼らに顧客を奪われたことに愚痴をこぼしたり、怨嗟の声をあげているのではない。
 自費出版の著者の大半は、当然のことながら出版の素人だから流通や書籍販売の実際に通じてはいない。しかし、たくさん売れて(読んで)欲しい。いや自分の作品は売れるはずだという自信(過信)もあれば野心もある。そこにつけ込むあざとい商法ではやがてトラブルを招き、ひいてはこちらにまで“出版社不信”という火の粉が降りかかってくるのではないかと思い、苦々しく思っていたのである。

 しかし、経済行為としての自費出版受注を版元の視点から見れば、私たちの引き受ける自費出版も基本的にはあまりかわらない、違いは「程度の差」であろうと高をくくっていた。ところが、彼らの顧客勧誘法はいかにもいかがわしかった。実際に顧客に送られてくる著者の原稿をほめちぎる歯の浮くような勧誘文、法外に高い見積額、さらには“共同出版”と言い“協力出版”と呼ぶある種「まやかし」(と私には映る)の言葉の数々を見るに及んでいささか見方が変わった。

 各社の見積書持参のお客から意見を求められたことも一再ならずあったが、仰天したのはある知人から聞かされた話である。何と九州から上京する折りには航空運賃もホテル代も出版社が「持つ」というのである。どこからそんな金をひねり出せるのか。自明であろう。そしてこうして出来上がった本はとてもプロの手になったとは思えぬ無惨なものであった。

 繰り返すが、私が恐れたのは自社の受注減だけではない。こうしたあくなき勧誘攻勢とそれに伴うトラブルの招来が、ひいては出版界全体の信用を失墜させていくことだった。いわば業界のモラルハザードである。
 形態や規模は様々でも、ほぼ例外なく自費出版も引き受けている地方・零細出版社にとって、この「信用不安」の波及するところは決して小さくはない。
 かくして大きく信用の揺らいだ自費出版ではあるが、依然として「自分も本を作りたい」という人々の要望は根強い。
 しかし、著者の「自信作」(過信)→「全国の店頭に並ぶ」→「売れる」という共同幻想の連鎖が誘導され続ける限りトラブルは絶えないであろう。

 そのことをきちんと説明し、了解を得たうえで自費出版は引き受けるべきである。こうして愚直なまでに著者に誠実に対応していくほかに失墜した信用を回復できる道はない。自費出版も受けてきた十五年の経験からそう確信している。

(みはら・ひろよし 弦書房前代表)

注:この原稿は後日、地方・小出版流通センターの情報誌「アクセス」3月号で掲載予定でしたが、内容が時事的かつ急を要するものと判断しホームページに一足早く公開しました。
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